作品収納の時  〜鳥取砂丘情報館・ギャラリー流音砂〜 
(2006年)

私は、自然に囲まれ意識するとしないにかかわらず、対象から送り込まれるサインに影響されながら生きている。
対象つまり、自然や外部なしに、全く孤独に生きることはできない。
そしてその中で自分の存在感を得るため、私はこの対象を砂の姿に 置き換えそれを借りて今まで創作をしてきたわけだが、この対象をどのように認識するのか、
またそのための方法をどのようにするのかというのが 私の絵描きとしての基本的な課題である。
ギャラリー流音砂にて展示風景
世界各国の砂丘を歩き回ってきた。
砂丘はたえず運動し、一瞬たりとも停止することがなくその姿や性格を変えている。
何処の国の砂丘を歩いていても、砂はいつもいろいろな形で私の心を揺さぶる。

ニューメキシコの砂は、花が開くように美しい光を放ち、あまりの美しさに瞬きができなくなってしまう。
オーストラリアの砂は、この世の全ての音、それどころか時間までをも吸収してしまい私の心を空っぽにしてしまう。
また、荒涼としたよりどころのない混沌の中で息絶え絶えになっているような中国の砂を見ると、私に攻撃心を奮い立たせる。
また、剣のように切り立ち燃えているような真っ赤な南アフリカの砂ときたら、
天国か地獄のどちらかに遂に迷い込んでしまったと私に錯覚を起こさせるのだ。
さらに内モンゴルでは、たぶん神の国と人間の国とのギリギリの境目で、
しっかりと足を踏ん張り続ける砂の姿を見た。

これらの砂丘になによりも心を打たれることは、砂がすべてを排除して純粋にそれ自体だけの世界を保ち続けているかのように見えることである。
砂自身が、みずからの存在に対する確信のもと、彼方なるものを含め全てを無化、すなわち「透明化」しようとしているように感じられることである。

このような砂が描く荒々しく力強い、あるいは悲しいまでも美しくせつない姿が幾重にも連なっている形相、これこそが、私が長年求めていた『透明感のある形象』に違いないと思っている。

2006年10月